昭和46年05月12日 朝の御理解
御理解 第22節
「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受けものが悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、侭よと言う心を出さねばおかげは受けられぬ。侭よとは死んでも侭よのことぞ。」
大変に幅の広いと申しますかね、御教えです。受けものが悪ければおかげが漏るぞとこう仰せられてあります。受けものが悪くてもおかげを受けておると言う事実があるのです。ただ頼めばおかげになる、願えばおかげになる、と云う所もあるのですね信心は。ただ願えば、ただ頼めばおかげになるという。一心に願えばおかげになる、此処のおかげを授けるが受けものが悪ければおかげが漏るぞと言う事のおかげというのは、私どもが助かると言うおかげだと思いますね。
私どもが助かると言うおかげ、おかげを受けても助かると言う事ではない。人間が助かると言う事は、何と言うてもやはり心の状態、心の状態が平常心を何時も持たせて頂けておるとか、有難い勿体ないという心が、何時も心の底からそれを感じるとか、そういう心が湧いて来るとか。親切な心神心そういう心が絶えず自分の心に動いておると云う様な状態ですね。これは私助かっている人の姿だとこう思う、そう言うおかげ、そう言う助かりと云う物はやはり受けものが悪ければ助かりにならない。
其処で本気で自分と云う物を見極めさして貰い、本気で日々の改まりの上に、本心の玉を研くことの上に精進さして頂くと言う事。其処から何とはなしに有難くなって来るのであり、何とはなしに平常心が頂けるのであり、自分自身の心の中に自分の心の中にも、此の様な神心が有ったのかと気付かせて頂き、いわゆる和賀心が祭れる。和賀心が有難うなって行く様なおかげ、そういうおかげはこれは受けものが悪ければ絶対頂けないものだと私は思うのです。
唯おかげ、願うたことが成就する。これはね、例えば受けものが悪くても、おかげを受けておるという事実があるですね。願えば頼めばおかげに成ると言うのですね。ですから此処で非常に巾が広いですね、このおかげと云う物は。最後のところに、神様の徳を充分受けようと思えば侭よという心を出さねばおかげは受けられん。侭よとは死んでも侭よぞ、という程しのです、神の徳を充分に受け様言う程しのおかげは、愈々もって、これは信心の目指しと言えば目指しですが。
大変な難しいことである証拠に、沢山の人が信心を致しますけれども、神の徳を充分に受けておる人は、そうざらには無いのです。だからおかげ、おかげとこういう、おかげには様々な様相というかね、願えば、頼めば頂かれるというおかげ、これは絶対改まらなければ、研かなければ頂けぬというおかげ。それこそ充分の徳を受けようと思えば、侭よという心を出さなければならん。
侭よというのは死んでも侭よという程しのおかげというのは、これは神の徳を充分に受け様と言うおかげ、だから非常に巾の広い私は御教えだとこう思うですね。其処で私共はですね、そのどれをも頂きたいと。成程信心の出来とらん、おかげの受け物も出来ておらんのだけど、やはりどうでもおかげを受けねばならない事がある、切実に。其処ん所をおかげを受けなければならん。
そういう例えばおかげはね、やはり一心に願わなければならん。頼まなければならん。いわゆる拝まにゃ通さぬと言う訳である。一生懸命にお参りをする、一生懸命に拝むと言う事。その中からね、おかげが受けられると言う事。してみると私どもの場合はですね、此処の拝みようが足りんと言う事になる。此処の階段に於いては、お参りはするけど、もう簡単に拝んで、いわゆる御祈念ですかね、とても簡単な御祈念で、もうお取次頂いて、お願いをしとるからと言うのでしょうか。
簡単な本当言うたら此処はどうでもという時には、それこそ繰り返し繰り返し、暇さえあれば御神前に座わって縋らなければおられん、願わなければ居られんと言った様なですね、切実心がいるのですね。願いと言う事の中には、「ただお願いしております」だけではいけん。だから願う。いわゆる拝む稽古が必要だと言う事になります。あれは不思議にね、一心に拝んで居りますとね、拝んでおる間は心が安らぐです。
不思議に一心に拝んどりますと、その時その場のものでありますけど、心に何とはなしに平常心が生まれるいわゆる安心が生まれる。ですからどうでも一つおかげを受ける。おかげを受ける事の為には拝まねばならぬ。けれども今日はそこの所のおかげの事よりも、おかげを「神は平等におかげを授けるが受けものが悪ければおかげが漏るぞ」と仰せられて居りますから、受け物の事に付いて一つ考えて見ねばいけません。
勿論受け物と言えば、受け物が大きければ、大きおかげ。小さければ、小さいおかげと言う事になります。どんなに大きな願いを立てましても、こちらの受け物が小さければ、おかげは小さいはずであります。どんなに清らかなおかげを頂きたいと思いましても、こちらの受け物が汚かったら、おかげもやはりそれに染んでしまう。いわゆる不純な物におかげが成ってしまうでしょう。
其処に清めなければならない又は心が、受け物が が大きいくなからなければならんと言う事になります。受けものが悪ければおかげが漏るぞと。いよいよ目の詰まった信心をせなければならん。目が粗くですから目細う清らかに、しかも大きくと言う事になるんじゃないでしょうかね。信心を目細うさせてもらう。信心をいよいよ、大きな心にならして貰うことが願いになる。
しかも受けたおかげの為に、またおかげを落とさにゃならんと、言った様な不純なものの混ざらないおかげを頂くために、本気で、私共が清まらなければ、ならないと言う事になります。どげんすればそんなら、おかげの受けものが大きくなるか、どんなにすれば清まる事になるか、どんなにすれば、目細い信心と云う様なことになるかが、問題になって来る訳ですね。
大海のような信心をすれば鯨が住むと仰せられる。ですから先ず大きなおかげを頂くためには、大海のような、大きな豊かにならして頂くことを精進さして貰う、所が、私どもの心の中には、もうちょっとした事があっても起こっても、自分の心の中に泳がせきらん。はばかり切らん。そういう小さい自分であることを気付かせて頂いて、いよいよ大きゅうなる、心が大きゅうなる、心が豊かになる稽古をしなければならん、そう云う稽古の材料はお互い日常生活の中に沢山有るのです。
昨日は高山さん、森部の高山さんの家の謝恩祭で御座いました。あちらへ参りましてこの、頂きました御理解ですけれども、「信心をする者は肉眼をおいて心眼を開け」と言う御理解でした。信心をする者は肉眼をおいて、心眼を開け、「神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ない」と云う様な御教えから頂きました。信心をするものは肉眼置いて心眼を開けと、昨日朝のお食事の時でしたが、家内がお参りをしてくれながら言うのです。
先日妹が参りましてから、「姉さん、この頃から、大変御迷惑掛けてから有難うございました」て、その家内に御礼を言うた。所が家内は何が何か知らなかったという訳なんです。「何ね」と言ったら、「この頃は立派なものを頂いて」とこう言う。私、今度あちらが養子を迎えさせて頂きます為に、色々心使わして頂いておる訳で御座いますが、私は何気なくしておりましてね。
それが出来上がって来とりました、ですからそれを妹の所に直ぐ届けさせておった。
妹はそれを家内にお礼を言うた訳です。私もろくろく実は見ておらなかったんですけど、まあそういう結果になっておった。ですから家内が冗談とも、本当ともわからん風して言うのですよ。自分はないがしろにされておる、無視されておると言う訳である。それならそれのごと一事言っとって頂きゃ、私も嬉しいし。
御礼を受けても、それが出来たのに、貴方が何も私に教えて下さらんもんだから、何事じゃったのと言って聞いた位のことじゃったとこう言う訳です。私はあなたがそげなことしなさるなら、因縁付けますよと云う様なことを、笑い話で言うのです。「ああらそげなことじゃったか」と言うて申したことですけどもね。昨日私、高山さんの所で、「信心する者は、肉眼をおいて心眼を開け」と。
「神を信ずる氏子は多いけれども、神に信じられる氏子は少ない」と言う御教えを頂きますのに、家内と私の昨日の朝の話のやりとりの場合を頂くのですよ。そして家内が目をしょぼしょぼとして、少し目を開けておる所を頂くんです。言わば私はそこから、信心をする者は肉眼をおいて心眼を開けと、言う事の御理解のヒントを頂いた訳なんですけれども、家内にとってみればね、肉眼をおいて心眼をもう開きかかっておるね
。薄目に分かりよる。すっきり目が開いておるとは思われないけれども、少し心の眼が開けて来よる。ですから実を言うたら、私が妹の所に、どういう風な事をしてやろうが、どう言う事になろうが、それを、それでいわば因縁を付けるとか、文句を言うとか、私をないがしろにしとるとか云う様な根性は一つもないけれども、まあ言うて貰えば、まだ良いという程度じゃなかろうか。
これがどうでしょうかね、普通の家庭でよくこんなことが問題になる訳ですね。まるきり妹の所にこっそりしてやったように、家内が邪推をすると致しましょうか。貴方妹さんの所にばっかり、こう云う様になって来るかも知れません。だがそういう深刻なものではない。それは肉眼をおいて心眼を開きかかっておるから、それが言わんで済むのです。だからもっともっと開けば、それは言わんでも済む事なのです。
けれどもやっぱり何でもこちらは別に、家内にこっそりとでも何でもないのですから、けれどもやはり家内の顔も立てて、妹のところへこういう物を造ったから、こういう物をやろうと思いよると、一ぺん言うたり見せたりすればもっと良かったなとまあ思ったことです。私どもが肉眼をおいて心眼を開く。いわゆる肉眼を以て見ると、それは腹の立つ事であったり、肉眼を以てすると私の顔を潰す事になったり、肉眼を以て見るとそれは病気であったり、災難であったりに見えるのであります。
心の眼を以て開く、そしてもらうとですそこには、神意、神愛があるだけなのである。神様の心があるだけなのである。ただ御礼申し上げる事だけですけど、あなたの肉眼を以てするから、只今申しますような答えになって来るのである。ですから私共がねやはり肉眼をおいて心眼を開かして頂ける程しの信心をさして頂くために、次のですね、徳を充分に受けようと思えば侭よと云う様な心と云う様な、そういう稽古をまた繰返しなさらねばならんのですよ。
拝んで頂くおかげ、一心に頼めば頂けるおかげ、いわゆる拝まねば通さんと言った様な時代から、もうこの所になって参りますと、研かなければ、改まらなければ通さんぞと言う事になって来るのじゃないか。心の眼が開けて来るという程しのおかげとは、やはり本気で改まらしても貰おう、研かしても頂く、そのこと、その問題を通してです、自分の心の中には何にも引っ掛ってはないと思う。
まあ妹さんの所にそうしてあげれることは有難いと思う。けれども少しばかりは引っ掛った。まだ心眼を開くと言うてもしょぼしょぼの処です。赤ちゃんが段々眼が見えて来るようになるですね。はじめの間は目が付いとるだけで目が見えないけれども、段々あれが百日なら百日も経ちますと、目が見えて来る様に成るという。私どもの信心もですたい、赤ちゃん時代から段々少しづつは目が見えて来る。
目が開けしてくるおかげを頂かなければならん。其処にはやはり研かなければ通さん、または改まらなければ下さらんと言う事になって来るのです。私はそういうおかげを頂かして貰う、其処から神様のいうなら御信用が段々付いて来る様に成る。一心に拝む、ただ我武者羅に御祈念をする。どうぞどうぞと言うて願う。そこから受けられるおかげ、研くことによりまた改まることによっておかげを頂いて行く。
神を信ずる氏子は多いがと仰るのは、その辺の自分じゃなかろうか。お取次を願ってお願いさえすれば、ああ神様のおかげじゃろうと感ずる事が出来る。やはり神様は御座るのだと、神様の働きと言うものが必ずあるんだと言う事がわかって来ることが、一心に願うとか、一心に頼むとか、御祈念をする。そこからおかげを受けて、神様を認めるようになってくる。そこでその次には、なら神様から認められる私になることに信心が、成長していかねばならぬ。
神様に認められると言う事はです、研かなければならん、改まらなければならん、勿論先程の拝むことも一心、頼むこともやはり平衡して信心が進められて行く。本気で研くことの楽しさ、本気で改まって行くことの喜びと言った様なものが、身について来る頃から、神様の御信用が始まって来る。その頃から目がかすかに開いて来る。肉眼を於いて心眼が開けてくる、物の実体、事柄の実体と言う事がわかって来る。
今まで悔やんでおったことが有難いと御礼が申し上げられるようになる。自分だけが不幸と思っておったのが、それこそ神様なればこそと有難い、痛い、けれども有難いといった状態が開けて来る。そういう例えば寒くても有難い、暑くても有難い、そういう心の状態が開けて来る頃からです、信心が、佳境とでも申しましょうか、佳境に入って行くというのは、その頃からだと思います。
心に改まることの喜び、見抜かして頂くことの楽しさと言った様なものが段々出来て来る。そういう心でです物事が観られ、物事が運んで行く訳です。其処に例えば普通から考えたら出来そうにもないこと、まあ言うならば目の前が真っ黒なると云う様な事やらが、まあ起きて来たと仮定いたしますと。すると、その事柄がです、侭よという心が、いよいよ出しよい時期になって参ります。
今日は言うなら皆さんにおかげの世界を、三段階にわけて聞いて頂いたんですけど、それがみなさん合点が行きよりますでしょうか。拝むことによって一心、頼むことによって頂くおかげ、改まることよって、研く事によって、その喜び楽しみが倍加して来る。信心の有難さがいよいよ身について来る。拝むだけで頂く時代がある。改まり研くと言う事。いわゆる拝まにゃ通さんという時代から、研かなきゃ通さん、改まらなければ通さんという時代がある。
その頃から信心の心の目が開けて来る。かすかに開けて来る。其処で、物の実際の姿と本当のその物の心と言うものが分かって来る。そういう有難い、勿体ないでなければ、到底出来ないと言う信心。それには、いよいよの時には、侭よと思わせて頂ける程しの一心の信心であります。そう云う所をまあ私は、充分の徳を得ようと思えば、其処の所が最後的のところとして頂ける様にならなければならない。
死んでも侭よと言う事は、もうそのことに一心になると言う事だと思います。一生懸命になるという意味なんです。お大祭ならお大祭を仕えさせて頂く、そのお大祭に神様が仕えて下さるのだから、まあ出来るだけのお祭りじゃなくて、その事に一心をかけると言う事なのです。その例話に、私の信者時代のお話しが御座いますですね。この度の御大祭には御祭典費はお供えさして頂いた。
けれどもお供えがまだしてなかった。年に一回の御大祭と言うのに、お供えも出来ないと言う事は神様に相済まぬことだと、其の事を思い思うて、福岡から善導寺にやらして頂く途中に、神様から、その時私が持っておった配給のメリケン粉があった。そのメリケン粉は、家内・子供が椛目の方へ参っておりましたから、こちらも配給で大変困っておられるのだから、福岡の方で配給が取れたら。
少しでも良いから食べものを持って来てくれという家内の願いに対して、私はメリケン粉を約一俵余り持って、椛目の方へ向かって来よる道中であった。御大祭だというのに、お供えも出来んと言う事は、まあ相済みませんことだと思い思うておったら、神様が其処にあるではないかとお知らせを頂いた。其処にあるというのは、今家内子供に持って行かなければならない食べものである。その時に私は思うた。
ああ本当に気が付かなかった。それはもう椛目に持って行くことだけ思うておった。本当に此処にあったと。さあ今度の御大祭のお供えはもうこれだと心に決まったら、神様からお知らせをまた頂いた。広い湖がある、小さい水鳥が餌を求めて探しておりますけど、何にもない様、だから三々五々水鳥がサーッと散らばって行く。その後から大きな水鳥がね、口に餌をくわえて、子供の小さい水鳥のところへ走って後追いかけるように行っておるという様な姿である。
私がその決心をした時に、はっとこれをお供えをと思った時に、神様が私に下さった。それは雛ですね。鴨です。それこそ思案投首という風をして、首を羽根の所に突き込んだ様にしておる。そう言う状態であった、ひよこが二、三羽その親鶏のそばにおったが、そのひよこが、餌かつれをしたと言う感じでね、バタバタと倒れて行く姿であった。「お前は今いさぎよい事を思うた。
子供達に食べさせるものを大祭のお供えにしようと思うたが、家ではこういう風にして待っているのだぞ。こういう風に餌かつれしたらどうするか」と言う様な、神様にそう言われた様な気がした。その時に、私の心の中に、「とにかく私ども親子四人の命は、あなたにお預けした。私としてみれば年に一回の御大祭、この御大祭に大した事は出来ません。今此処あるこれを以てお供えしたい、受けて下さるならお供えしたい。
家内・子供のことは、もうあなたにお預けした、お任せします」と言う心になった、たら次の瞬間に、まあ湖に餌をさがしている水鳥の子供達が、バラバラになって行く、後から大きな親鳥が餌を持って、跡を追いかけておると言う様な情景であった。こういうお話なんかはです。いわゆるもう心の状態が、「大坪さん本当にそげん有難かとですか」と人から言われる程しに、もう難儀魂魄の時代に、もう有難うして有難うして、勿体のうして、勿体のうして、いう心の状態の時であった。
師を思う身は酣の時代ですから、もうその事が寒ければ寒いが有難い。暑ければ暑いが有難いという時代であった。言うなら今日の御理解で三段階に入っておった訳です、おかげのですから例えば其の様な思い切った決心が出来た。所謂命預けますと言う事になれた。神様は命預ります言う事になった。こちらの命預け神様が命預けると言うよりも、もう命上げますと言う事でしょう。だから命を神様が受けて下さった。
そう言う信心を私は、もう此処では侭よと言う心。侭よと言う心はもう、死んでも侭よと云う様な心の状態だと思う。私がもし徳を受けたと云うなら、そう言う時代にお徳を受けたのじゃないかと思う。受けておるとするならば、充分の徳を受け様と思えば侭よと言う心を出さねば、おかげは受けられん。侭よとは死んでも侭よの事ぞと。今日はそこに、おかげと言う事をですね。三つの段階に又そのおかげの受けられる段取りと言うかね、順序と言った様なものを聞いて頂きましたですね。
どうぞ。